stand by me

 友達と友達でいつづけるために必要なのは時間だと思う。顔を合わせて声を聞いて考えを共有して、変わっていく自分達をそれぞれ確認する時間が必要だと思う。それは友達に限った話ではなくて、家族でも恋人でもなんでも、関係を続けたい人であればあるほど、それだけ大事に思っている人であればあるほど、頭に残っているその人の記憶と、今この時も変わりつつある本人の変化をすり合わせていかなければいけない。人は変わるものだし、人の変化はそう簡単に受け入れられるものではないと思う。何よりも相手を大事に思うなら、変わりゆくその過程をできるだけ見て、それに意見を言いたいし、そうじゃなくても、何も言わないという選択を自分で下したと思えるようにしたい。少なくとも私はずっとそう思う。この考え方は変わらない。

 だから、相手と会う、手段なんかどうでもいいから、電話でもネットでもとりあえずそれでいいから、とにかく互いの考えを晒し合う時間が必要だと思う。

 

 スタンドバイミーを見返した。前見た時は、これが名作なんだな、くらいにしか印象に残らなかったのに、今日見たらすごくよかった。バナナフィッシュを読んだ後で、リヴァーフェニックスの生き様を知ってるからだとか、きちんと集中して見れたからだとか、そういうのもあるけど、昔の友達との記憶がテーマになっているからというのが一番大きな理由だ。

 有名なラストシーンで、ずっと会っていない親友クリスのことを、一生愛しく思う、そして死体探しに一緒に歩いた、あの4人みたいな、あんな友達は2度とできない、と大人になった主人公のゴーディは原稿にしたためていた。

 確かに昔の友達との記憶は甘くて愛おしくて綺麗に見える。実際にそういう記憶は私の中にもあるし、思い出の中でまさに宝物みたいにキラキラと輝いていて、永遠に私の心に残り続けると思う。

 ただ、それは、ノスタルジーから造られたまがい物でもある。私は記憶を自分の都合がいいように作り変えるのがうまくて、それに最近気づいた。忘れたいことは忘れるし、嬉しかったことはもっと嬉しくなるようにストーリーを盛る。最初は自分のことだから嘘に気づいているけど、だんだん本当に自分の嘘を信じるようになって、というか作った偽物の方が記憶として記録したいように見栄えよく整えられているから、最終的には都合良くキラついた記憶を本物として扱うようになる。本物じゃない記憶で自分を慰めることはあまりにも虚しいけど、滑稽だと私は馬鹿にできない。青春ははっきり覚えていないからあんなに綺麗に見えるのだと思う。

 私には絶対に1つつく嘘があって、それはほとんどの人に対してずっとつき続けている嘘なんだけれども、その嘘が本物になればどれほどいいかということをずっと昔から考えていて、でも今まで生きてきて真実になることはなかった。事象や事実は決して揺るがなくて、結局私が変わるしかなくて、そういう現実は確かに厳しくて辛い。結局嘘は本当のことに敵わないのかもしれない。

 ただ、スタンドバイミーの中で、ゴーディが語っていた気持ちに嘘があるかと言われたら、そんなことはないのだと思う。

 記憶は一瞬一瞬の記録が連続して続いたもので、一見不変のものに思えるけれど、記憶する主体の人間は刻々と変わっていくものだから、本来記憶も変化し続けるものだ。映像を見て受け取る感想が人それぞれ変わるように、過去の私が見たスタンドバイミーと、今の私が見たスタンドバイミーの意味は全く異なっている。それは過去の私と今の私が異なるからであって、だから過去の私が経験したことと今の私が経験することは違う価値を持つ。

 ゴーディは、過去の自分が経験したことを、クリスが死んでしまったということを知覚した今の自分が書くことに意味を感じたのだと思う。たくさん傷つくことが起こった小さな街の中で、死んだ兄貴のことをみんなが知ってしまっているような狭苦しい逃げ場のない中で、一瞬でも時間を共有できたことは何よりも素晴らしいことで、そこでできた友達はクリスでもテディでもバーンでもなくてもよかったかもしれない、けど、紛れもなくその3人が自分と時間を共有してくれた、その事実は絶対に変わらなくて、それが重要だったのだろう。その変わらない事実を、クリスの死を経験した今の自分というフィルターを通して文字に残すこと、そこに価値を見出したのだと思う。

 私は正確な記憶などほんの5秒前のことでも全然覚えていられない。ただ私がバカなだけなんだろうけど、ゴーディはノスタルジーに浸って、それを信じ込んでストーリーを描いたというよりかは、何よりも過去の時間を共有したこと、そのことに価値があることを信じて、きっと頭の中の記憶は事実とは違っているところもあるだろうけれど、過去の自分と仲間に起きた出来事を、今の記憶の形で残そうと決めたのだと思いたい。

 勝手にゴーディを私と同じような、過去を正確に覚えられない人として仮定した上での考え方だけれど、綺麗に見える思い出ほど危なっかしいものはないと思うのだ。それほどスタンドバイミーの映像はワクワクに満ちていて、刹那的だった。まさに青春という感じだった。フィクションとして完璧なのは、そういう美化された記憶を呼び覚ますからというところもあるだろう。

 

 ジュディマリのそばかすで、思い出はいつも綺麗だけどそれだけじゃお腹が空くわ、とYUKIが歌っていて、私もそう思う。綺麗な思い出は自分を慰めてくれるけど、毒がないとリアルじゃない。スタンドバイミーを見てそんな無粋なこと毎回考える必要はないけど、美しい過去に浸る癖がつくのは嫌だ。