2021/09/03

 人と仲良くなりたい。でもその人のことを知れば知るほど相容れないアクみたいな部分が浮き出てきて、どうしても嫌になって、結局途中で別れる、みたいなのばかり繰り返している気がする。そもそも球数多く打って選別して向こうからも選別されて残ったのだけが親友!みたいにどんどんイケるタイプでもないのに、こんな自分から人選んじゃって俺ってなんて偉そうなんだと思う。でも全然変える気は起きなくてどこまでも私は偉そうである。本気で悩んでないんだろうなと思える。年取って1人になって死ぬ間際に、カビの生えた煎餅布団の上でおしっこもうんこも垂れ流しながら後悔するのかもしれない。

 私は学校でもそんなに友達はできなかったし、バイト先でも部活でも全然人と仲良くなれなかった。そういうこと言うやつはタカビーな感じするけど現に今本当にそう思うからしょうがないじゃないかと言い訳している。

 同窓会でたくさんの喋ってる人、人、人の山を見た時本当に尊敬した。あと自分に失望した。そんなに色んな人と話すことなかった。喋りかけてくれた人が本当に輝いて見えた。嬉しかった。羨ましかった。別にみんな喋ることなくても喋る相手いるんだと思うと羨ましかった。

 私が一方的に名前だけ知ってる女の子に会場を聞かれた時、一人でずっと入り口の前にいるのもなんとも嫌で、目の前にはイケてるグループ!みたいな軍団がいたし、怖かったからその子と適当に話したりできないかなと思って、数少ない私の友達と(多分友達なはずだったから)知り合いか聞いてみたら聞こえてなかったみたいでその子はすぐ他の友達見つけてどこかへ行った。それだけで本当に帰りたくなった。こんなとこ来て勝手に恥ずかしくなって楽しいより帰りたいが先に来る人間が、それでも来たら楽しいかな〜と期待して全部意味なくて悲しくなって何やってるんだろうバカだな俺って、みたいなループが始まった。

 大体たくさんの人が集まるとこではこんなんばっかりで、最後美味しいご飯食べて数人と喋って楽しくなった気になってまた忘れてそういう会に参加する。2、3人で好きなとこ行ってグダグダしてるのが1番好きなことはわかってるのに本当にバカだ。遅く帰らないと同窓会楽しんでないみたいに思われそうでわざとゆっくり帰った。誰の目を気にしてるのか分からない。

 喋り下手だし、気使えないし、仕事できなくてカッコ悪いしお金ないし見た目も良くないし、、、みたいな、友達ができない理由を作るための、ある意味自己防衛のための、愛する自分への愛ある悪口を並べ立てたところで同じようにダメな人も友達はたくさんいたりする。そういうものなので私が私らしくある限り友達たくさん作れないのはしょうがないことなんだと思う。

 

 人といない時にはとにかく人が隣にいたらどんなにいいだろうと思う。私は多分想像力豊かな方である。豊かな想像力ってして欲しくない妄想もよりリアルにしてしまうから嫌だ。

 本をたくさん読んで想像力をつけましょう!みたいなクソフレーズがあるけど、私だってESには使ったこともあるけれど、あんなん嘘っぱちだと思う。文字を読む行為に変に教育的意味入れなくてもいい。本なんて適当に読んでもいい。集中したかったらする。好きなものを権威として組み込まれるのは気持ち悪いから嫌だ。

 そもそも想像力ってなんなのか。人の気持ち慮ることばっかりフォーカスされるけどそれってそんないいことなのか。想像力ない方が経済的にも精神的にも結構豊かに生きることができそうだと見てて思う。人のこと考えすぎるのは私の場合大体自己防衛でしかないから、そこに想像力使うとただ自分が疲弊する。そういう人は多いと思う。

 他人のことを分かりきるなんて到底無理なことを前提にして、それでも人のこと分かろうとするのが、喧嘩しないためにはきっと何より大事なことだろうけど、そんな努力しても最終的に人は他人と分かり合えない確率の方がよほど高くて、効率と新しさが何より大事な現代においてそんな面倒なことみんなとやってる暇なくて、世の中なんてクソだ。じゃあ最初からそんな面倒なことやらない、代わりにねじ伏せるための金と権力持ってやる!って人が増えるのは当然の流れに思える。どうせ人のこと気にしないんなら自分のやりたいようにやろうぜ!という感情は誰だって持つだろうと思う。

 それはそれとして学者からあなたは構造的に他者を搾取している、みたいに言われるのも辛い。「普通」に生きているだけで他人に迷惑かけているなんてそんなの知りたくない。好きで生まれてきたわけでもないのに勝手に死ぬことも許されないのに、人を救い高い理想を掲げ全ての人が幸せになるように動かないと罪悪感を持たなきゃいけないのかな。そういう構造を変えましょう、社会を変えていきましょう、と聞くと、私も理念に共感する!と考えて動くんじゃなくて無意識に他者を迫害していた過去の自分の罪悪感を消すために動くのが私だと思う。

 

 二元論で考えるのはいい加減やめないと精神衛生上にも良くない。自分には手に負えない大きなものの中での私のちっぽけさについて見つめることが好き過ぎて、それは多分怠慢な私を肯定するための防衛策で、私は肝心な目の前のことを置いていきがちである。それなりに良い私を目指して毎日なんとなく頑張って過ごしていくしかないのだと思う。