2021/08/29

 書きたいと思っていたはずのことをすぐ忘れてしまう。いつだって逃した魚は大きい。すごく価値のあることを書き記そうとしていた気になってしまう。その日1日ムズムズする。大抵思い出せない。だからそのムズムズはずっと続く。

 どんなことを覚えていてどんなことを忘れたのか自分じゃ分からない。忘れるとき、脳みそが「コレを忘れますよ!」と一言忠告してくれればいいのにと思う。勝手に忘れてしまう。忘れることそのものよりも、忘れたことに気づかないのが怖い。覚えていたいことも、忘れたことにさえ気づかないうちに忘れていくんだろうなと思う。

 記憶ってなんなのかたまに考える。覚えていること、自覚していること、意識していることがその人の人格だとしたら、忘れてしまったことはもうその人の一部ではなくなるのだろうか。体験や経験が記憶を形作るのだと思うけど、記憶は流動的だから自分の経験全てが記憶としてとどまるわけじゃない。じゃあ全ての経験は自分のものにならないのかもしれない。

 体は食べたものや吸った空気でできているけど、それって体の一部なのか、みたいな話を読んだことがあるけどそれに近い。今私の周りにある、見ることさえできない空気も私なのか、みたいな話である。

 忘れてしまったように見えても実は身体が勝手に覚えていること。例えば自転車に一度乗れるようになったら、どれだけ乗っていない期間があっても乗れてしまうようなこと。無意識に覚えていることもあってそれは私の一部、記憶であるように思える。

 それでもやっぱり、無意識は無意識のままに消えて、なかったことになってしまう経験=時間の方が限りなく多くて、しかも自分では記憶を取捨選択することも難しくて、私自身が私のことをよくわからないままなんとなく生きていかなきゃいけないのは、結構寂しい気がする。そして何より、忘れたということさえ忘れながら生きていくように体はできているから、普段こんなこと考えずに生きている私がいることも悔しい。ナルシスティックに自分のことが切なく儚げで可哀想だと愛おしく思える。

 

 社会人になったしあんまり外にも出られないから欲しいものをネットで買うことが増えた。週末に合わせて宅配を頼んでおくとワクワクの休日が始まって楽しい。

 この前初めてバゲットハットを買ってみたんだけどおばあちゃんの帽子を借りてきた人みたいに見えてしまって中々かぶれていない。単に見慣れてないことも大きいんだろうけど、ストリートな服着るとなんかコスプレしてるみたいで少し恥ずかしくなる。スポーツもヒップホップもスケボーも全然興味ないのに、勝手に人のユニフォーム着てるやつみたいな感覚である。いっそ、ちょうど最近届いたadidasのテラテラ真緑ファイヤーバードと一緒に合わせてラッパーなりきりコスプレをやってみようかなと思っている。ゴツめのスニーカーとか合わせちゃおうかなと思っている。

 そういうのこそファッションらしくアホっぽくて楽しいと思う時もあるけど、やっぱり自分には似合わないことが多い気がする。文化が身についてる人はそれだけでしっくりくる、っていう服はやっぱりある。コラージュするだけの限界はあると思う。

 

 なんとなく文章を締めようとしてまた何を書けばいいか忘れてしまった。最後こういうことを言おう、と決めていた気がするからまたムズムズしてきた。せっかくの日曜日が一日ムズムズに取り憑かれることになりそうである。

  要所要所の大事にしたい思い出でさえ覚えていられない。一瞬一瞬忘れたくないことばかりだから、私の記憶保存戦略として、記憶のトリガーになる服を選んで着ていたい。今は紺のトランクスに白のエアリズムで、黄緑のシーツのベッドに寝転んでこの文章を書いている。