2021/08/16

 飼い犬との思い出。ビーグルの大吉。確か叔母が名付けた。センスがあるなあと思う。普通のビーグルと違って顔がキリッとしていた。かっこいい顔だった。

 古くて汚い毛布が大吉は大好きだった。毛だらけでぼろぼろで臭い水色の毛布。秋から冬にかけての暖かい日には、ひなたに毛布を移して一緒に日光浴をした。玄関に座ると大吉はのそのそと近くに来てくれて、私はただぼーっと彼を撫でていた。

 耳が悪くて水が入るといけないので、体を中々洗えなかった。一撫でするだけでもだいぶ臭かった。石鹸で2、3回は必ず洗わないとにおいが取れないほどだった。

 たまに散歩に連れて行くととても喜んだ。普段は門扉を閉めて庭を走らせるだけだったから、大吉にとって外の世界に出るチャンスは散歩だけだった。季節によってどんぐりが落ちていたりツクシが生えていたりして、大吉はそういうこの世の全てを嗅ぎまわりながらグングン進んでいく。それはそれは楽しそうに歩くので、見ていて気持ちがよかった。気になるところはずーっと嗅いでいたり、通り過ぎる犬が吠える姿をじっと見つめて動かなかったり、私のことを無視してリードをぐいぐい引っ張って先に歩いたり、常に大吉に主導権があったように思う。大吉は私に鎖で繋がれているのに、自由な生命の塊だった。

 

 ペットを飼いたいと思う時と、そんなひどいこと出来ないと思う時がある。ペットという存在はグロテスクだ。「愛でるため」に生かされている動物を、何の疑問もなく素直に可愛がる行為は、無意識に一つの命の自由を奪うことと同じだ。

 ペットは常に暖かい部屋で安定した食事を取ることができる。それを幸せだと決めつけるのは人間の傲慢さがすぎる。自分たちに都合のいい理論で動物の幸せを定義している。「愛でるため」「可愛がるため」に生かされているものは、「可愛くなくなったら」捨てられる。自分で生きていく力もないのに捨てられたら終わりだ。可愛がられなくとも自分の力で生きていたい動物だってそりゃいるだろう。ペットになったら死に方さえ選べない。

 

 大学の授業で「ティファニーで朝食を」を読んだ。作中に「猫」と呼ばれる猫が出てくる。名付けられない。特に世話もされない。ホリーは名前をつける権利はないと言っていた。ティファニーで朝食をとることなどできるはずもないのに、ホリーはそういう幸せを欲しいと言っていた。永遠に手に入らなさそうな幸せを求めてさまようホリーの態度ははっきりしていて、何ものも持たず不安定に暮らしていて美しかった。ホリーにとっては、猫だって名付けて自分のものにする対象ではなかった。

 カポーティが言っていたらしいけど、確かにホリーのモデルはオードリーヘプバーンのような可憐で清楚な女ではなく、マリリンモンローのような怪しくて不思議でクレイジーな女だと思う。目を離したらどこに行ってしまうか分からない、別にいいやつではないのになんとなく心惹かれる、みたいな女がホリーであって、最後男と一緒に幸せになることを彼女が選べるわけない。自分を幸せにしてくれる男を永遠に探し続ける女がホリーであるはずだと思う。

 ホリーは「得体の知れない不吉な塊」を赤色で表現している。「赤い気分」のことを主人公に語っている部分を読んだとき、梶井基次郎檸檬と同じだと思った。よく分からないのにすごく不安なこの気持ちは万国共通だと思うと少しほっとする。

 

 ニューヨークではティファニーで朝食をとることができるらしい。稼げるだろうけどセンスはないと思うからやめてほしい。

 全てを理性や正しさで支配することはできないししないほうがいいから、生き物を所有し「それ」から幸せを享受することは悪いことではないのだろうけど、確実にグロテスクではある。私はペットも子供も似たようなものだと今は思ってしまう。なので2つとも手にすることはできない。多分考え方はどんどん変わっていくけど、今は何も持たずに死にたいと思う。