2021/05/20

 2人だけでいる時何してんだろう、というカップルがいる。2人ともイケてるんだけど、お互いに話も合わなそうだし、2人で何かやって楽しそうにしてる様子が全然想像できない。そもそも仲が良くて好きで付き合ったというより、お互いにこういうレベルの相手と付き合うのが適正ヨネ、まあ彼氏彼女いた方がクールだしネ、という感覚で付き合ってそうだけど、邪推なんだろう。

 本当に外野がどうこう言うことではない。ないけど、一回隠しカメラ仕掛けて何話してんのか聞いてみたいとは思う。会話までイケてたら、その人たちは本当にただ自分たちがイケてるのか、恋人の前でさえイケてるオレ/ワタシを演出してるのだろうか。

 

 ダサいとかイケてるとか一々言うのもうやめないか、みたいな話をされたことがある。私はダサいかイケてるかだけで世の中の全てを、そして私自身を判断してきたから、そう言われたらなす術がなくなって消えてなくなるしかないのだけど、ダサVSイケを決めつけるということはすなわち暴力なんだろうと思う。

 いまさら言葉自体の暴力性というか、不定形なものを囲って意味を定めてしまうという特性があることに原点回帰するつもりもないのだけれど、やっぱり何かを言葉にするということは罪になるのかもしれない。

 思い浮かべる時、私は映像じゃなくて文字で、言葉にして考えるタイプだから、思考自体言葉でできている。ということは、考えるということそれ自体が言葉にすることであり、考えることも暴力になってしまう。悪いことを考えることは悪いことなのだと思う。すごく真っ当なことを言っているようで、私のこの考え方は自由に考える権利を奪うとても危ういものである。思考を奪うって戦争してた時代と同じだ。ファシズムと同じだ。

 

 別にその人が好きなことを考えて話して書いて、好きなものを身につけ食べ聞けばいいとは思うけど、私はどうしてもそれがかっこいいかかっこよくないかという判断はしてしまう。最悪歩きながら今すれ違った人について友達とダサいかイケてるかについて、好き勝手にくっちゃべってしまう。相手に聞こえているとしたらすごく失礼で、でも私はそういう勝手な判断を下し、あーだこーだ言い合うのが楽しい。

 

 今、あなたはあなたが好きなものを理由なく好きでいていい、周りと異なる好きを持つ私を尊重し肯定していい!という風潮があって、それは好きなものを好きと言うことが難しかった人にとってとても喜ばしいことだけれど、好きになるものが違うことで自分を保っていた人にとっては一種の地獄だとも思う。

 それを好きなおかげで自分が自分でいられた、唯一無二の個性だと思い込んでいたものが、世の中に肯定されてしまったら、私を形作っていた個性がひとつ消えてしまうことになる。私は、他人から否定されて、そのくらい市民権も何もかも得ていなかった、数少ない貴重な個性を持っていたはずなのに、それが、どんどん、いいんですよ!あなたは、世の中の意見など何も関係なく、あなたが好きなものを好きでいていいんです!なんて言ってもらったら、一番肝心な私の価値が下がって困るのだ。自分勝手で自己中心的な感情だ。

 私とはあくまで相対的なもので、情報さえなかったら、他者なんていなかったら絶対に私は唯一無二のものになれるのに、なれたはずだったのに、そういう未来は消えてしまって、私は有象無象の肯定された他者の中に入ってしまう。何かを得るときに、失うものがないことなんてないのだと思う。

 

 人が家に来てくれると嬉しい。別に何をするでもなくただ喋って、コンビニで買ってきたおやつなんか食べながら過ごすのが好きだ。その代わり、その友達が帰って、落ちてる髪の毛や食べカスなんかをコロコロで掃除してると、きたねー、めんどくせーと思いつつやっぱり寂しくて、最初から一人で映画見てた方が良かったんじゃないかとも思う。

 馬鹿にされた時、茶化された時、本気で顔赤くして怒るかそれを隠して黙ることしかできない。でも、変に下に見られることに慣れてしまって、上手いこと流せてしまう人の方が気苦労は多いだろうし、幸せかどうかで言ったら、馬鹿真面目に怒る、イジりにくい私みたいな人の方が幸せなんだろうなと思う。

 

 ないものねだりをし続けることは私の性格上もう諦めるしかない道で、でも持っていないからこそ得られたメリットもあるわけで、そんなことも分からないバカにはなりたくないと思う。絶対に一つだけの正解を作りたくない。