2021/05/15

 お洒落であろうとすることって恥ずかしい。何もしなくてありのままの状態でお洒落でありたい。お洒落に見られたいのに、お洒落しようとしてることがバレるとすごく恥ずかしい。「何気ないお洒落さが大事なんだな!」とか思って白シャツ羽織って短パン履くと普通にダサい。いっそド派手な、お洒落からはかけ離れたようなヘンテコな服を着ると、そういう「お洒落」という物差しから逃れて、私は「私だけが」好きな格好をしているんです!そのベクトルが「普通」の「お洒落」とは違うんです!私は周りの目なんて「気にしてない」んです!みたいに暗に主張できるので、たまに振り切った服を着る。ファッションの面では、逆の逆の逆くらい逆説的に、まわりくどくしか表現できてないけど、他人の目が私にとって一番大事だ。

 

 文章がお洒落だと言われたことがある。すごく恥ずかしかった。洒落た文章を書くって、つまり自分で自分のこと曝け出せてないだけだ。

 文字にして吐き出す行為は、自分の恥部を他者に見てもらうということだと思う。それがお洒落ってことは、どこまで行っても、私は周りの目を気にして、変に作った自分しか見せることができないって意味じゃないかと思う。本当の自分ってなあに?って青臭すぎるけど、本当に私の中に私自身が全然いない。

 私だけにしか見せることができない私を見せたいけど、私の中で私は他者の集合体でしかないからそんなもの書けるわけないと思う。でも、朝井リョウが、特別なことを経験した人しか面白い小説を書けないなんておかしい、普通の人が書ける面白さは必ずあるって言ってて、実際に朝井リョウの小説が面白いと感じていて、見事に言い訳を封じられて苦しい。

 

 人に自分の文章を読んで欲しいと思う。自分に自信がないからこそ他の人にあなたはこういう人なんだねって言ってもらいたい。定義されたい。だから、私の文字を読んで欲しいと思うこの気持ちは、それは私のことを他者に知って、分かって欲しいということで、読まれたら私の底の浅さも頭の悪さも全部露出するから怖い。図々しいけど、でも読んで欲しい。

 その気持ちって寂しさとも言える。寂しくてたまらなくて、他人で埋めようとするけど結局その時間は別の感情で寂しさが紛らわされてるだけで、忘れたと思ったら思い出してしまって私はずっと寂しい。こういう私だけが感じていたはずの感情も、宇多田ヒカルがこの前のインスタライブで綺麗に言語化していて、すげえなあと驚いた。宇多田ヒカルにさえ負けたくない。宇多田ヒカルがすごく好きで同じくらいすごく妬ましい。星野源のライブに行って彼を直視できなかった感覚と同じだ。

 自分で自分の感情とか時間とか処理するのが下手だ。一人遊びが上手くできなくてすぐ電話したりラインしたりする。もちろん友達と待ち合わせて会ってご飯食べて買い物してカラオケして飲んで、もする。別に人といない時間も人といる時間も同じように疲れたり楽しかったりイライラしたりするのに、1人でいる時はやけに他の人といる時間の方が良さそうに見える。

 

 寂しい気持ち自体はどうしようもないから、好きなもの眺めて聞いて食べて自分の心に別の方向向かせるのが結局一生与えられた処方箋になる。土曜早く起きて、昨日風呂に入らなかったベタベタの体のまま、ベッドの中で、ミシェルの世界の終わりを聞いて、aikoのミルクを聞いて、ジュディマリのクラシックを聞いて、それが私が好きなもので、全然その時間は寂しくない。この後湯をためて1時間たっぷり浸かって風呂上がりに資生堂のzenをつけて新しいギャルソンの服着て何回も見てる映画見て最近ハマってるチャーハンを食う、それだけでいい。本当は全然良くないんだけど、とりあえず代替品の幸せな日常として、しっかり目隠しの機能は務まる。

 

 俺が聞いてる限りお前の生活クソつまんねえな笑、と言われたことがあって、確かに、まあ別に面白くはないなと思った。でも言われた相手の面白さの基準は酒とスポーツとsexらしくて、そんな古典的なことある?とも思った。面白さって人それぞれだけど、どんな人にも面白いと思われたいからどんなものにも好奇心持ってなきゃダメなんだろう。