2021/04/24

 小学生でJ-POPを聞き始めて、中高でアメリカンポップスにハマって、大学生からまた日本のポップスが好きになって、よく聴いている。結構普通の音楽遍歴だと思う。それなのに、好きな音楽を友達に言うことがずっと恥ずかしかった。

 自意識過剰なのもあったし、周りと好きになるものが少し違うという感覚もあった。ずっとEXILEやジャニーズやアイドルに、同級生みたいに心の底からハマりたかったし、そんな「まがいもの」に惑わされず宇多田ヒカルを聴いている自分こそ本物なんだとも思っていた。よくいるタイプのひねくれた子供だ。バカだなあと今は思う。

 

 宇多田ヒカルのファンは普通にたくさんいた。EXILEや乃木坂を毛嫌いする人も普通にたくさんいた。私は、私を私たらしめるものを、他の才能ある人たちに負わせていただけだと分かった。自分が好きなもので構成されていて、それは普通の人とは異なる今日なパズルのピースで、だからこそ他の誰でもない私の価値は高いのだと思い込んでいたけど、単なる勘違いだった。

 大問題だった。私が、私の周りの小さな小さな世界の中では少しだけ風変わりで、それが辛くて、でもどこかとても誇りに思っていて、だからこそ腐ってもプライドとして心の中でキラキラ輝いていたのに、私には何も無いと分かってしまった。別に私の好みなんて普通の範疇だったし、普通から完全に外れてしまえる並外れた感性もなかった。宇多田ヒカルを好きな男は沢山いたし、レディーガガを好きな日本人も普通にいた。私だけが好きだった宇多田ヒカルやレディーガガは、みんなから愛されていて、私はそれに気づいてなかった。

 

 そもそも、普通であることのありがたさ、というものが少しずつ分かり始めた頃だったと思う。普通ということは同じということで、それだけ楽だ。1人じゃ生きていけないタイプの私は、人とコミュニケーションを取らないと生きていけないわけで、普通じゃなかったら今頃どこかでのたれ死んでいたと思う。

 自らがなんの変哲も面白みもない、普通である、ということを意識している人ほど、変わっている、クレイジーな、目立つ「私」を演出したがる気がする。悪いことではなくて、それも社会性を身につけるということだろうとは思うけど、私は自分がその一員にいて、しかもそれに気づいてなかったことに気づいて、とても恥ずかしかった。そんなこと考えずに、好きなものを好きだと言える人のことが羨ましい。

 

 就職活動をしていた時に、「あなたの性格を、他者との人間関係を例に挙げて説明しろ」という設問に答えなければいけなかった。

 「臆病であるからこそプライドが高く真面目。他者の視線や価値観を常に気にしている。例えば私は必死に知識を身につけてきた。いわゆるペンと机で学ぶ学問だけでなく、他者から学ぶ教養という分野においても私の姿勢は一貫している。その理由は、自分がありのままに無知でいても、他者に嫌われる/敵わないことを知っているから。自分には天性の明るさや一から何かを創り出せる才能は無い。それでも同じ凡人に嫌われたくも負けたくもなかった。そのため一つの生存戦略として知識を身につけた。比較される他者がいることで私は真面目というキャラに形成され、努力を重ねることができている。」と書いた。

 私は普通じゃないと誇りに思っていたら予想以上に普通で、それに気づいた結果不安になって、知識を武装する手段として身につけ始めたんだと思う。

 

 朝井リョウの「何者」を夢中になって読んで共感した。多分その場で恥ずかしくなって死んじゃうから「花束みたいな恋をした」を見にいけない。その理由は全部、私がこういうタイプだからで、それは本や映画になるくらい結構普遍的なことで、それが私だった。