2021/11/09

 マーガリンが好きだ。あのバターにはないしおらしさを持った油の塊が好きだ。パッケージには、常にバターにどれだけ近いか、バターに比べてどれだけ安いか、バターに比べてどれだけ安全性に配慮しているか、バターに比べてどれほど健康的か、デカデカと書き連ねられており、どの商品もバターと比較されて、それでも「本物」のバターに絶対に勝てないマーガリンが好きだ。

 マーガリンとは、バターという本物に近づこうとすればするほど、実際には「本物ではない」という唯一の欠点がなによりもひどく突きつけられて、「偽物」としての烙印が押される悲しい食べ物である。フェイクであるという事実だけが重要であり、どれだけ本物に近似しているかは大して重要ではない。

 大抵の消費者は二者の味の差を感じて買い物をしているわけではないと思う。味には慣れる。初めて食べたバターの味にどれだけ感動しようとも、人間の脳はそれほどうまくできていないはずだ。忘れてしまうものである。それがバターという、毎日でも口にするような日常的なものともなればなおさらである。

 つまり、私はバターを選ぶ人は、バターの味そのものというより、マーガリンではなくバターを買うその選択を大事にしているのだと思う。少しお金を出して毎日使ういいものを買う。バターを買う人がそういう風に見えるほどに、マーガリンは本当に美味しい。

 マーガリンは美味しい。誰になんと言われようと、マーガリンは人間の口に合うようにできている最高の食材である。トーストした食パンにマーガリンをたっぷり塗ったくり一口目にかぶりつくあの瞬間、金色のトロッとした脂がジュワッと口の中に溢れてくるあの感覚は、幸せそのものだと思う。

 

 永遠に2番手に置かれているこのマーガリンの危機的状況がひっくり返ったら面白い。マーガリンが王様になる日がやってくる。

 あの偉そうなツラをして、生意気にも堂々と構えた、大して味は変わらないのにご立派な値段をつけられ、心なしか包み紙まで大金をかけられキラキラとして見える、憎きバターのパッケージに、「まるでマーガリンのような舌触り!」と書かれる日が来るかもしれない。

 マーガリンが、成城石井にどっしりと鎮座する。その影で、ひっそりと、私もいていいんですかという顔で陳列されるバター。高級スーパーの中でよりどりみどりに並べられ、もちろんパッケージには植物性の良質な脂が使われている等々の、商品自体の特性を示す文句が記されている。もちろんもう「上」の対象と惨めに比較されることはなく、自分がマーガリンであるということを誇りに思ってさえいる。

 

 そうなったら私はマーガリンが嫌いになる。マーガリンがマーガリンである自分を誇れるようになったのは、きっとバターという哀れなフェイクがいたからである。マーガリンは、マーガリンがそのままただ置かれていたら、ここまで自信満々にはなれなかったはずである。それなのに、あっという間にマーガリンはバターに対する恩義を忘れて、バターを隅に追いやっている。需要があるということがまるで正義かのように売り場で振る舞い、自分がどういう思いをしたのか何も分かっていないまま、高値をつけられて平然としている。私は何があっても、そんな仕打ちを、自分が受けた仕打ちさえ自覚できず非道に振る舞うマーガリンのことを、絶対に許せないのである。

 

 私には軸がない。スポーツでファンが一つのチームを粘り強く応援するように、オタクが一つのキャラを偏愛し続けるように、何かずっと好きだというものがなく、それがそういう属性で、社会ではそういう立場である、だから好きになるということが多い。それは、私が目まぐるしくブランドの価値が乱高下するファッションを好きな理由だし、だから一つのブランドやスタイルをずっと好きであるという信念は微塵もなく、それを示すかのように常に行くショップも、店員と仲良くなれた経験も、そんなもの一切ない。フラフラしている。

 

 マーガリンそのものが好きにはなれない私は、何か大事なものが欠けているように思えて仕方ない。やっぱり、私は好きであるということを自分の頭で決めることができない人種なのだと思う。生まれる時代を間違えた。タイムマシーンに乗りたい。