梶井基次郎への憧れを込めて

 

 「電話ボックスの撤去がZ日より開始されると決定しました。政府は、以前より薬物の受け渡し等、犯罪の温床になっていた公衆電話を問題視しており、市民の声も後押しとなって法案は可決された模様です。ただし、近年の資本格差の拡大を背景として広がりを見せる、携帯電話を持たない層からの根強い反対の声も上がっています。ここで専門家のAさんに、、、」

 

  巨大なモニターを見上げると、小綺麗な服に身を包んだアナウンサーがハキハキと現実を伝えている。新宿駅東南口の階段を降りて、かつてよく訪れていた喫茶店へ向かう道の途中、いつも見かける電話ボックスがある。三台あった。今では一台がぽつんと立っているだけだ。薄張のプラスチックでは何も守れない。兄弟はもう居ない。

 

 新宿も変わってしまった。歌舞伎町は浄化された。花園神社の見世物小屋は姿を消した。ゴールデン街を七三分けのスーツが足早に通り過ぎていく。清潔な街の中で、私と電話ボックスだけが薄汚れている。

 

 Y日、東口から信号を渡ってすぐの果物屋で林檎を買った。艶々と輝いて何よりも美しい。新宿に最も似合う果物は林檎である。幸福の塊を手に持って新宿通りを闊歩する。紀伊國屋が見えてくる。新品のピカピカな本を手提げに入れ、満足げな顔をした、いかにも知的そうな客が出てくる。澄ました顔でそこを通り過ぎる。あの、ひとりぽっちの電話ボックスに入る。

 

 私は、基次郎を超えることを、今から証明する。私が文学を学んで初めて憧れた、基次郎を超える。手に入らないものへの嫉妬を爆発させるのではなく、私と共に死にゆくものを慈しみながら、私は私を終わらせる。基次郎になり得ないなら、基次郎を超えれば良い。

 

 純な私の同情を込めて、黄緑の平たい頭の上に林檎を載せる。そのまま座る。朝が来れば、電話ボックスと共に私は消えてしまうだろう。無機質に眩い蛍光灯が街に光を散らす。不思議なほど安心して、私は死んだ。