2021/08/29

 書きたいと思っていたはずのことをすぐ忘れてしまう。いつだって逃した魚は大きい。すごく価値のあることを書き記そうとしていた気になってしまう。その日1日ムズムズする。大抵思い出せない。だからそのムズムズはずっと続く。

 どんなことを覚えていてどんなことを忘れたのか自分じゃ分からない。忘れるとき、脳みそが「コレを忘れますよ!」と一言忠告してくれればいいのにと思う。勝手に忘れてしまう。忘れることそのものよりも、忘れたことに気づかないのが怖い。覚えていたいことも、忘れたことにさえ気づかないうちに忘れていくんだろうなと思う。

 記憶ってなんなのかたまに考える。覚えていること、自覚していること、意識していることがその人の人格だとしたら、忘れてしまったことはもうその人の一部ではなくなるのだろうか。体験や経験が記憶を形作るのだと思うけど、記憶は流動的だから自分の経験全てが記憶としてとどまるわけじゃない。じゃあ全ての経験は自分のものにならないのかもしれない。

 体は食べたものや吸った空気でできているけど、それって体の一部なのか、みたいな話を読んだことがあるけどそれに近い。今私の周りにある、見ることさえできない空気も私なのか、みたいな話である。

 忘れてしまったように見えても実は身体が勝手に覚えていること。例えば自転車に一度乗れるようになったら、どれだけ乗っていない期間があっても乗れてしまうようなこと。無意識に覚えていることもあってそれは私の一部、記憶であるように思える。

 それでもやっぱり、無意識は無意識のままに消えて、なかったことになってしまう経験=時間の方が限りなく多くて、しかも自分では記憶を取捨選択することも難しくて、私自身が私のことをよくわからないままなんとなく生きていかなきゃいけないのは、結構寂しい気がする。そして何より、忘れたということさえ忘れながら生きていくように体はできているから、普段こんなこと考えずに生きている私がいることも悔しい。ナルシスティックに自分のことが切なく儚げで可哀想だと愛おしく思える。

 

 社会人になったしあんまり外にも出られないから欲しいものをネットで買うことが増えた。週末に合わせて宅配を頼んでおくとワクワクの休日が始まって楽しい。

 この前初めてバゲットハットを買ってみたんだけどおばあちゃんの帽子を借りてきた人みたいに見えてしまって中々かぶれていない。単に見慣れてないことも大きいんだろうけど、ストリートな服着るとなんかコスプレしてるみたいで少し恥ずかしくなる。スポーツもヒップホップもスケボーも全然興味ないのに、勝手に人のユニフォーム着てるやつみたいな感覚である。いっそ、ちょうど最近届いたadidasのテラテラ真緑ファイヤーバードと一緒に合わせてラッパーなりきりコスプレをやってみようかなと思っている。ゴツめのスニーカーとか合わせちゃおうかなと思っている。

 そういうのこそファッションらしくアホっぽくて楽しいと思う時もあるけど、やっぱり自分には似合わないことが多い気がする。文化が身についてる人はそれだけでしっくりくる、っていう服はやっぱりある。コラージュするだけの限界はあると思う。

 

 なんとなく文章を締めようとしてまた何を書けばいいか忘れてしまった。最後こういうことを言おう、と決めていた気がするからまたムズムズしてきた。せっかくの日曜日が一日ムズムズに取り憑かれることになりそうである。

  要所要所の大事にしたい思い出でさえ覚えていられない。一瞬一瞬忘れたくないことばかりだから、私の記憶保存戦略として、記憶のトリガーになる服を選んで着ていたい。今は紺のトランクスに白のエアリズムで、黄緑のシーツのベッドに寝転んでこの文章を書いている。

 

2021/08/16

 飼い犬との思い出。ビーグルの大吉。確か叔母が名付けた。センスがあるなあと思う。普通のビーグルと違って顔がキリッとしていた。かっこいい顔だった。

 古くて汚い毛布が大吉は大好きだった。毛だらけでぼろぼろで臭い水色の毛布。秋から冬にかけての暖かい日には、ひなたに毛布を移して一緒に日光浴をした。玄関に座ると大吉はのそのそと近くに来てくれて、私はただぼーっと彼を撫でていた。

 耳が悪くて水が入るといけないので、体を中々洗えなかった。一撫でするだけでもだいぶ臭かった。石鹸で2、3回は必ず洗わないとにおいが取れないほどだった。

 たまに散歩に連れて行くととても喜んだ。普段は門扉を閉めて庭を走らせるだけだったから、大吉にとって外の世界に出るチャンスは散歩だけだった。季節によってどんぐりが落ちていたりツクシが生えていたりして、大吉はそういうこの世の全てを嗅ぎまわりながらグングン進んでいく。それはそれは楽しそうに歩くので、見ていて気持ちがよかった。気になるところはずーっと嗅いでいたり、通り過ぎる犬が吠える姿をじっと見つめて動かなかったり、私のことを無視してリードをぐいぐい引っ張って先に歩いたり、常に大吉に主導権があったように思う。大吉は私に鎖で繋がれているのに、自由な生命の塊だった。

 

 ペットを飼いたいと思う時と、そんなひどいこと出来ないと思う時がある。ペットという存在はグロテスクだ。「愛でるため」に生かされている動物を、何の疑問もなく素直に可愛がる行為は、無意識に一つの命の自由を奪うことと同じだ。

 ペットは常に暖かい部屋で安定した食事を取ることができる。それを幸せだと決めつけるのは人間の傲慢さがすぎる。自分たちに都合のいい理論で動物の幸せを定義している。「愛でるため」「可愛がるため」に生かされているものは、「可愛くなくなったら」捨てられる。自分で生きていく力もないのに捨てられたら終わりだ。可愛がられなくとも自分の力で生きていたい動物だってそりゃいるだろう。ペットになったら死に方さえ選べない。

 

 大学の授業で「ティファニーで朝食を」を読んだ。作中に「猫」と呼ばれる猫が出てくる。名付けられない。特に世話もされない。ホリーは名前をつける権利はないと言っていた。ティファニーで朝食をとることなどできるはずもないのに、ホリーはそういう幸せを欲しいと言っていた。永遠に手に入らなさそうな幸せを求めてさまようホリーの態度ははっきりしていて、何ものも持たず不安定に暮らしていて美しかった。ホリーにとっては、猫だって名付けて自分のものにする対象ではなかった。

 カポーティが言っていたらしいけど、確かにホリーのモデルはオードリーヘプバーンのような可憐で清楚な女ではなく、マリリンモンローのような怪しくて不思議でクレイジーな女だと思う。目を離したらどこに行ってしまうか分からない、別にいいやつではないのになんとなく心惹かれる、みたいな女がホリーであって、最後男と一緒に幸せになることを彼女が選べるわけない。自分を幸せにしてくれる男を永遠に探し続ける女がホリーであるはずだと思う。

 ホリーは「得体の知れない不吉な塊」を赤色で表現している。「赤い気分」のことを主人公に語っている部分を読んだとき、梶井基次郎檸檬と同じだと思った。よく分からないのにすごく不安なこの気持ちは万国共通だと思うと少しほっとする。

 

 ニューヨークではティファニーで朝食をとることができるらしい。稼げるだろうけどセンスはないと思うからやめてほしい。

 全てを理性や正しさで支配することはできないししないほうがいいから、生き物を所有し「それ」から幸せを享受することは悪いことではないのだろうけど、確実にグロテスクではある。私はペットも子供も似たようなものだと今は思ってしまう。なので2つとも手にすることはできない。多分考え方はどんどん変わっていくけど、今は何も持たずに死にたいと思う。

 

2021/07/27

 スポーツに興味がない。家族みんなスポーツが好きだった。肩身が狭かった。オリンピックや箱根駅伝を見てないでゲームしてると「損してるねえ」と言われた。確かにそうだなあと思いつつ、そんなこと言われたくないねとも思う。みんな声を張り上げて、選手のプレーに一喜一憂してるのが不思議だった。

 見たら面白いんだ、自分もスポーツを好きな側の人間なんだと思い込もうとしていたけど、一人暮らしを始めてから、スポーツ観戦みたいなものを自分からしたことが一度もない。本当に興味がない。スポーツを好きな人が持つ特有の明るさってあると思う。それへの憧れだけで、部活も続けてたようなものだと思う。

 スポーツをやるのも観るのも苦手で本や映画が好きって、あまりにも量産型文化系みたいでちょっと恥ずかしい。そういう人はよくいるし、私はそういう中の1人だ。

 

 ただ、友達に野球観戦に誘ってもらって、西武ドームに行ったのは楽しかった。確かチケットが余ってたとかそんな理由だった。その友達はすごく変な人で、同級生の名前も全然覚えないし、名前を覚えてないことを人に言うし、早口で喋るし、特に気を使うということをしない人だった。そんな人が自分の名前を覚えていてくれたことに感動した。そんなに話したこともなかったけれど、たまに世界史を教えてもらっていた。頭が良くて、得意なはずの英語も彼の方がよっぽどできて、悔しかった。自分はなんとなく彼が好きだったから、誘ってもらった時単純に嬉しかった。

 野球のルールは全く分からなかった。ヘルメット型のカップに入ったかき氷を食べてる時が1番テンションが上がった。盛り上がった時は周りの人とハイタッチした。結構緩い雰囲気で意外だった。

 

 プロスポーツ選手が、夢は叶う、と言うことについて、「夢は叶うかもしれない」と言わないと誠実じゃない、という投書が怒り新党に宛てられたことがある。皆さんはどう思いますか?

 

 ちなみに有吉はブチギレていた。そんなことスポーツ選手に言う奴はクズだと言ってた。

 スポーツ選手自身が、夢は叶わないこともあるってことを知らないはずないとは思う。金メダル取っちゃうような人はずっと相手を負かし続けてきたわけだから。その上で、実際に夢を叶えた人に、「夢は叶う」って言ってもらうことが素晴らしいのだ、みたいな感じだった。有吉はそういうことを言ってた。昔見たから詳しくは分からないけど、そんな感じだった。

 私は投稿者と有吉どっちにもなる時があるから、なんとも言い難いんだけど、なんというか、真実を言わないと怒られる風潮が強まっているとは思う。

 そもそもスポーツ選手に何を期待しているのか。夢を見せてくれる職業の人に本当のことをどこまで言って欲しい人のか。僕は努力もしたけどもちろん才能にも環境にも恵まれていました。運もありました。全てを兼ね揃えていたから勝てました。同じ努力しても勝てない奴もいるけど僕はたまたま勝てました!

 感動させるためのいかにもなドラマを選手の口から語らせるのも聞きたくないけど、これもこれで同じくらいひどいと思う。

 

 広告とかCMで全部※イメージです、がついていたら萎えるのと一緒で、これは嘘でもあり真実でもあり、事実の中間なんですよ、という前提は分かった上で楽しむのがいい気がする。

2021/07/10

 ニューヨーク旅行に行った。星野源のライブを見に行った。星野源のライブには一度行ったことがあって、直視できないくらい輝いていて、ずっと見ちゃいけないものを見てるみたいな感覚だった。エロビデオを覗くエキサイティングなドキドキとも違って、落ち込んでるんだけど心臓がバクバクしてる感じだった。嫉妬だったと思う。今でもこの感覚は消えてない。

 星野源に嫉妬する、というとすぐルックスを持ち出す人がいるけどそうじゃない。というか見た目でそんなに差がない、と仮定したところで、ここまで人望に差が出るって考えたらそっちの方が辛い。究極的に中身がダメだってことを、暗に、でもはっきり示されてるのと同じではないですか。言い訳が何も無くなってしまう。

 なんかすごく正しい感じがするから見ていて辛いのだ。星野源のファンもみんな正しい感じがする。正しいことを歌詞にして、正しく楽しくなったり悲しくなったり怒ったりしてる感じがする。しかもとてもかっこいいやり方だから、自分の居場所がますますなくなる。

 友達は横で、心の底から嬉しい気持ちを表現していた。隣から聞こえてくる拍手も歓声も、本物の感動を五感でフルに伝えていた。自分だけ沈んでいた。全然ノれなかった。チケットを取るのも大変な人気歌手のライブでこんなことをやるのは犯罪行為だし、もしスピッツ宇多田ヒカルのライブで隣の客がこんなのだったら邪魔でしょうがないと思う。でも耐えられないくらいキラキラしすぎていた。じゃあ行くなよという話だけど、彼の歌はやっぱり何度聞いても好きなのだ。

 

 ニューヨークでの会場はソニーホールというライブハウスで、星野源を見にニューヨークまで来てしまう日本人ファンが結構いた。外国で、好きな歌手という共通点があって、同じ言葉を話す人たちと会えるとやっぱり嬉しくて、何となくみんなで集まって話したりした。海外の人もいて、中でも中国人の女の子2人組が、日本語で彼に応援メッセージを書いてきたの!と見せてくれてとても可愛かった。ネットで、同じ中国人のファンに色紙に書く言葉を募ったらしい。

 その中の1人と、夜ご飯を一緒に食べた。みんないい席で源さんを見たいから、ライブがある日は朝から並んでたんだけど、流石にニューヨークに来てまで1日ライブに潰すのは自分は嫌だった。たまたま前に並んでたお姉さんに、かわりばんこで並ばないかと提案してもらった。喜んで提案に乗った。並んでるうちに必ず喋るし、なんだかんだライブ終わりに写真も撮ったりして仲良くなった。お姉さんは1人だったから、3人でご飯を食べに行くことにした。

 夜11時に開いてる店はそんなになかった。TGIFriday'sで適当なハンバーガーとビールを注文した。旅慣れたお姉さんは「ニューヨークに来てまでこの店でご飯食べたって言わない方がいいよ、バカにされるから」と教えてくれた。そのうち自然と就活の話になった。もう11月になるというのに志望先も決めてなくて、やりたいことといえば自分が普段触れてるものに関わりたい、それくらいの気持ちでいることを話した。お姉さんはすごく立派な仕事をしていて、今でもいろんなことに挑戦してて、何より自分がまさにやりたいと思っていることをしていた。その上で、至極真っ当なアドバイスをされた。要約するともっと具体的に動いたほうがいいってことだったと思う。聞くのが嫌でたまらなくて、耳を塞いでいたからはっきりとは覚えていない。

 外国でライブを見てその場で会った人と夜ご飯を一緒に食べる、とても楽しいことをしてるはずなのにずっと辛かった。誰も悪くなくて自分が勝手に劣等感を感じてただけだから、自分以外誰も責められなかった。勝手に不機嫌になった。ホテルに戻る道中で、あんまり楽しんでなかったねと友達に言われて最悪だった。子供みたいな態度を子供みたいに外に出していたんだと思う。

 

 それ以外は楽しかった。夜中買った大きなピザをホテルのベッドで寝そべって食べた。ペパロニとマッシュルーム。映画に出てきたブライアントパークを歩いた。11月だったから、クリスマスオーナメントを売っている店がたくさんあった。ホールフーズやトレーダージョーズでお土産をたくさん買った。SOHOで食べた小さなチーズケーキは、おじさんが安くなってるやつを教えてくれた。byredoの店員は偉そうだったし早口で何言ってるのか分からなかった。本当はkriglerの香水も見るだけ見たかったけど、プラザホテルに入るだけでさえ怖気付いてダメだった。最終日はサンクスギビングデイだったから、道がとても混んでいて、スーツケースを押しながら進むのに苦労した。テレビで見た中継の映像通り、キャラクターの大きなバルーンが練り歩いていた。帰りのペンステーションでチケットの買い方がよく分からなくて焦った。

 エンパイアステートに登って摩天楼を上から見下ろした。それが1番映える思い出でとても楽しかったけど、どうでもいいようなこまごまとした出来事の方が心に残っている気がする。

 

 なんで全部ひねくれた見方をしてしまうんだろう。かっこいいと思うもの、好きだと感じるものをそのまま素直にかっこいい、好きだと言えたらいいのにと思う。ニューヨークが好きだと言えるようになったのもつい最近だ。素直さを取り戻すことはできない。

好きなもの

コムデギャルソンの黒T

 胴の横の部分に紐が通されていて下側にスパンコールがついている半袖の黒いTシャツ。夏に着ればいいんだろうけど洗濯機で普通に洗えないから夏着れない。何回も行くだけ行って何にも買わなかった(買えなかった)ドーバーで初めて買った。セール。頑張って買った。とても思い入れがある。この前久しぶりに埃除け外して着てみたらやっぱりテンション上がった。これを着て街を歩くという行為が私にとっての東京なのだ!!!

 

セリーヌの金ネックレス

 高円寺の古着屋で買った。これも確かセールにかかっていた。太くて目立つ。ラッパーみたいだねと言われた。下品だねとも言われた。自分では好きだから、どんな格好の時も着ける。派手さと比例してとんでもなく重い。朝これを着けて家を出ると夕方には肩こりがひどいことになっている。ただ回避する方法もあって、腕にも巻ける。白シャツの上に適当に巻くのが好き。

 

スワロフスキーのイヤリング

 勢いで2個買った。緑とクリア。デザイナーが変わってハデハデになったスワロフスキー。見てるだけで楽しいおもちゃみたいなデザイン。耳につけるものを一個も買ったことなかったから初めての挑戦。イヤリング的にもイヤーカフ的にも着けることができる。から気分によって着ける場所を変えられるのも良い。

 

熊本の「マチ」

 熊本では中心部のことを「マチ」と言う。デパートの鶴屋も市電もパルコも都会の象徴で未だに行くだけで楽しくなる。熊本のパルコは吉祥寺のパルコとは質が全く違う。テナントとかそういうのはどうでもよくて、とにかく熊本のパルコの方が3段階くらい上。

 高校の時、市電にちょっと乗ったらマチに行けるのがすごく良かった。実際に行くことは少なかったけど、だからこそマチは今以上に憧れの場所だった。今でも地元から唯一出ている田舎専用の赤バスに乗って、新市街で降りて、勝烈亭でとんかつを食べて、鶴屋とかカミノウラ通りとかシャワー通りとかをフラフラ歩いて、焙烙饅頭を黒白それぞれ家族の分もお土産に買って帰る、それが最高なのだ。わざわざバスに乗って1時間弱かけて、往復千円の交通費かかっちゃうとこに行くのが良いのだ。

 通町筋で降りると綺麗に熊本城が見える。あの交差点を行き交う人見てるだけで楽しい。母の友人がよく行くサンマルクもある。不思議なあだ名の人で、面白くて、ブルーハーツが好きで、出勤前に必ずサンマルクで一服するらしい。なんだか彼女のそういうところが全部好きだ。仲良くなれたと思っていた中学の友達と会ったらお互いに変化していて話が合わない、という切ない思いをそのサンマルクでしたこともある。一階奥の暗い2人席だった。

 いつのまにか大好きなラーメンの北熊もマチに出来てた。本店と同じようにきちんと美味しくてよかった、キムチもちゃんと辛かった。熊本はラーメン屋もケーキ屋もきちんと夜遅くまで開いてている。居酒屋も選択肢が多い。安くて美味い店がたくさんある。キャッチはやる気がなくて全然話しかけてこない。いつか通町筋徒歩5分の小さなアパートに一人暮らししたい。

 

新宿

 中央線の電車賃が高くて、半額で済む京王線の駅まで20分近くかけて歩いて新宿に出ていた。思い出は全て新宿にある。

 

怒り新党

 就活がうまくいかない時ずっと見ていた。元々好きだったかりそめ天国の元番組?な立ち位置だったこと、夏目三久アナが母校出身だったことなどがきっかけ。マツコと有吉がいろんな番組に出始めた頃ぐらいに、とりあえず毒舌同士バラエティで混ぜてみよ、な雰囲気で始まったらしい。が、2人で喧嘩することはほぼなくて、むしろ投稿者にキレたりよく分からない方向に話を持ってったりしてた。

 自分は断然冒頭の3人のカラミが好きだけど、日本三大〇〇が好きな人も多いらしい。この前友達で実際に三大の方が好きな人を発見して驚いた。もちろんどっちも好きではあるんだけども。

 

まだまだ好きなものはたくさんある。

 

2021/06/26

 ゆで卵の殻が綺麗に剥けた。それだけで嬉しい。塩をふって食べた。美味しかった。

 茹でた後に殻を剥くと言う作業の面倒臭さも手伝って、いつもはスクランブルエッグか目玉焼きしか作らない。味付けにも醤油ばかり使っている。ゆで卵は食べると一瞬なのに、結構手間がかかるのだということを家を出てから知った。

 卵を茹でた後のお湯でインスタントラーメンを作った。水をもう一回沸かし直すのが面倒なのだ。濃い味で作られているはずのスープでさえ生臭さが移っていることがはっきり分かった。卵を茹でた煮汁で料理してはいけないことが新たに分かった。またひとつ賢くなった。

 

 携帯をずっと眺めているから目が疲れる。一瞬目を離したと思ったらすぐに手に取っている。まさに中毒だ。

 Google Homeを買ったはいいけど、いざTVで YouTubeでも見ようとすると、リモコンでスイッチを押さなければいけない一手間がかかることに気づいてしまった。これが結構面倒くさい。携帯ならタッチするだけで電源がつく。おまけにいつも手にしているから探す手間もない。ということで思ったよりGoogle Homeを使っていない。生きるって難しい。相変わらず目の疲れは取れないままだ。

 

 エアコンのちょうどいい気温を永遠に設定できない。最初は21度で良くて、5分経ったら突然寒くなる。22、23、24度と一度ずつ上げていって、それでも寒い。そこで25度にした途端に一瞬で暑くなる。下げたら寒い、上げたら暑いを繰り返して面倒になって冷房を切ったら暑くて嫌になる。だから夏は嫌いだ。

 

 奥さんに作ってもらう弁当と、母親に作ってもらう弁当の何が違うのかと思う。人に作ってもらってるのは同じなんだから、どっちがダサいとかダサくないとか、ないと思う。そういうのは思っててもいいけど口に出さないで欲しい。なんでそう簡単に自分の方が立派だと思えるのか。お前が何もやってないのは同じだろうが、と思うだけで何も言わない。

 

 夕方4時くらいまで家にこもってると、携帯の見過ぎで目は痛いし、なんとなくもったいない気がして外に出たくなる。無駄にギラギラした服を着て業務スーパーに行ってもやしだけ買って帰ったりする。それか、大体中央線沿いのどっか吉祥寺とか阿佐ヶ谷あたりで適当に降りるんだけど、そっからいつもルーティンだ。服、惣菜、甘いもの、本、あたりをいつもの店でチョロチョロ見て回って、なんか寂しくなったら友達と会うとか、そのくらいで終わる。「いつメン」がいる人って羨ましいなとこういう時思う。

 これから結婚する人も出てくるだろうし、多分会ってくれる人はどんどん減っていく。変えたくないルーティンも変わっていってしまうこと、それが自明なのが悲しい。

 

 ことさらに、普通の自分であることを卑下する必要はない。はずだと思いたい。普通の人が普通に生きてて誰にも思い出されない日常を積み重ねていくことが我慢できないならそれは知らない。自分が死んだ後は世界は終わるんだから、なんにも気にしないでいたい。

stand by me

 友達と友達でいつづけるために必要なのは時間だと思う。顔を合わせて声を聞いて考えを共有して、変わっていく自分達をそれぞれ確認する時間が必要だと思う。それは友達に限った話ではなくて、家族でも恋人でもなんでも、関係を続けたい人であればあるほど、それだけ大事に思っている人であればあるほど、頭に残っているその人の記憶と、今この時も変わりつつある本人の変化をすり合わせていかなければいけない。人は変わるものだし、人の変化はそう簡単に受け入れられるものではないと思う。何よりも相手を大事に思うなら、変わりゆくその過程をできるだけ見て、それに意見を言いたいし、そうじゃなくても、何も言わないという選択を自分で下したと思えるようにしたい。少なくとも私はずっとそう思う。この考え方は変わらない。

 だから、相手と会う、手段なんかどうでもいいから、電話でもネットでもとりあえずそれでいいから、とにかく互いの考えを晒し合う時間が必要だと思う。

 

 スタンドバイミーを見返した。前見た時は、これが名作なんだな、くらいにしか印象に残らなかったのに、今日見たらすごくよかった。バナナフィッシュを読んだ後で、リヴァーフェニックスの生き様を知ってるからだとか、きちんと集中して見れたからだとか、そういうのもあるけど、昔の友達との記憶がテーマになっているからというのが一番大きな理由だ。

 有名なラストシーンで、ずっと会っていない親友クリスのことを、一生愛しく思う、そして死体探しに一緒に歩いた、あの4人みたいな、あんな友達は2度とできない、と大人になった主人公のゴーディは原稿にしたためていた。

 確かに昔の友達との記憶は甘くて愛おしくて綺麗に見える。実際にそういう記憶は私の中にもあるし、思い出の中でまさに宝物みたいにキラキラと輝いていて、永遠に私の心に残り続けると思う。

 ただ、それは、ノスタルジーから造られたまがい物でもある。私は記憶を自分の都合がいいように作り変えるのがうまくて、それに最近気づいた。忘れたいことは忘れるし、嬉しかったことはもっと嬉しくなるようにストーリーを盛る。最初は自分のことだから嘘に気づいているけど、だんだん本当に自分の嘘を信じるようになって、というか作った偽物の方が記憶として記録したいように見栄えよく整えられているから、最終的には都合の良いバージョンを本物として扱うようになる。嘘の記憶で自分を慰めることは虚しいけど、滑稽だと私は馬鹿にできない。

 私には絶対に1つつく嘘があって、それはほとんどの人に対してずっとつき続けている嘘なんだけれども、その嘘が本物になればどれほどいいかということをずっと昔から考えていて、でも今まで生きてきて真実になることはなかった。事実は決して揺るがなくて、結局私が変わるしかない。そういう現実は確かに厳しくて辛い。結局嘘は本当のことに敵わないのかもしれない。

 ただ、スタンドバイミーの中で、ゴーディが語っていた気持ちに嘘があるかと言われたら、そんなことはないのだと思う。

 記憶は一瞬一瞬の記録が連続して続いたもので、一見不変のものに思えるけれど、記憶する主体の人間は刻々と変わっていくものだから、本来記憶も変化し続けるものだ。映像を見て受け取る感想が人それぞれ変わるように、過去の私が見たスタンドバイミーと、今の私が見たスタンドバイミーの意味は全く異なっている。それは過去の私と今の私が異なるからであって、だから過去の私が経験したことと今の私が経験することは違う価値を持つ。

 ゴーディは、過去の自分が経験したことを、クリスが死んでしまったことを知った今の自分が書くことに意味を感じたのだと思う。たくさん傷つくことが起こった小さな街の中で、死んだ兄貴のことをみんなが知ってしまっているような狭苦しい逃げ場のない中で、一瞬でも時間を共有できたことは何よりも素晴らしいことで、そこでできた友達はクリスでもテディでもバーンでもなくてもよかったかもしれない、けど、紛れもなくその3人が自分と時間を共有してくれた、その事実は絶対に変わらなくて、それが重要だったのだろう。その変わらない事実を、クリスの死を経験した今の自分というフィルターを通して文字に残すこと、そこに価値を見出したのだと思う。

 私は正確な記憶などほんの5秒前のことでも全然覚えていられない。ただ私がバカなだけなんだろうけど、ゴーディはノスタルジーに浸ってストーリーを描いたわけではなく、何よりも過去の時間を共有したこと、そのことに価値があることを信じて、きっと頭の中の記憶は事実とは違っているところもあるだろうけれど、過去の自分と仲間に起きた出来事を、今の記憶の形で残そうと決めたのだと思いたい。

 勝手にゴーディを私と同じような、過去を正確に覚えられない人として仮定した上での考え方だけれど、綺麗に見える思い出ほど危なっかしいものはないと思うのだ。それほどスタンドバイミーの映像はワクワクに満ちていて、刹那的だった。まさに青春という感じだった。フィクションとして完璧なのは、そういう美化された記憶を呼び覚ますからというところもあるだろう。

 

 ジュディマリのそばかすで、思い出はいつも綺麗だけどそれだけじゃお腹が空くわ、とYUKIが歌っていて、私もそう思う。綺麗な思い出は自分を慰めてくれるけど、毒がないとリアルじゃない。スタンドバイミーを見てそんな無粋なこと毎回考える必要はないけど、美しい過去に浸る癖がつくのは嫌だ。