2020/10/12

 知れば知るほど明確な意見が持てなくなる。人と喋る時、私が話している内容のほとんどは悩みだ。悩んでいることについて話している時ほど饒舌になる。私は自分が悩んでいるとわざわざ表明することが好きなようだ。

 理論武装で自己防衛をすることが好きだ。断言することは嫌いだ。絶対という価値観がないことを散々習ってきた。今更何か正義みたいなものを自分の中に作りたくない。

 常に異常でいたい。人と違うことをすることで評価されたい。犯罪者の家族に思いを馳せたい。上下左右のどの意見の中でも、それぞれの場所で異端の意見を言いたい。どの場所にいるかはあまり関係ないかもしれない。そういう自分は卑怯だけど、こだわりすぎる人を見てもみっともないと思う。私はそういう自分をパフォームするために意見や悩みを利用し、創り出している時がある。

 

 最近、期待をしない処世術が流行っている。期待しなければ落胆もせずに済む。上を見なければ下も見ないで済む。安心だ。知らないということは武器になる。経験しなければ存在しないのと同じだ。自分が死んでしまったら世界は終わると思う。

 自信がなくて、寂しがりやで、常に誰かに頼らないと生きていけないのに、自分が人生の主人公でないと感じたことはない。考えたことすらない。私は自分が人生の主人公であるということを、疑いもせずに、自信満々で生きてきた。きっと家庭環境が良かったからだと思う。甘えることを喜んでもらえた。私も子供は欲しいし、育ててみたいけど、どう足掻いても無理だと思う。

 

 冬が好きだ。たくさん着込むと暖かいし、守られている気がする。夏は暑くてもどうしようもない。汗をかいてタオルで拭いても、ベタベタした湿気までは拭えない。寒かったら歩けばいい。自分でどうにかできる。まだ母ほどに肩こりが深刻な身体でもないから、着込むなら着込むほどいい。着膨れした姿は誰をも愛嬌ある姿に変身させる。

 東京の電車は空調が効きすぎていて、私にせっかく着てきた一張羅のコートを脱がせようと挑んでくる。そのくせ脱ぐのさえ難儀なほど混んでいて狭い。付き合っていた人と一緒に初めて朝の満員電車に乗った。東京行き。遥か西側からこんなにも多くの人が、行きたくもない会社に向かっていることへ思いを馳せていたら、口からその想いが溢れていた。あの時私はとても幸せだった。学校へ向かう田舎行きの電車に乗り換えると、そこは天国だった。ボケっと座ってのどかな景色を見ていた。

 暖房は気持ち悪くて嫌いだ。あの熱はいかにも体に悪いような気がしてならない。生温いものは食べ物でもなんでも嫌いだ。

 秋雨で、ついこの前まで立派に咲いていた金木犀が散った。住んでいるアパートのすぐ近くに建つ一軒家に2、3本植えてあり、毎年楽しみにしている。あまり気づきたくなかったが、金木犀は通りすがりに風に漂ってくる香気を吸うくらいがちょうどいい。あの花は匂いが強すぎる。どうもイメージと違う。もっとほのかに香るものだと思っているのに、毎年忘れ、毎年思い出す。もし庭付きの家でも建てることができた日には、うっかり金木犀を大量に植えてしまいそうで怖い。逆に百合はもっと匂っていい。咲くときも枯れるときも大胆な癖に、意外と匂いは弱くはないか。

 お菓子の香料が好きだ。本物のぶどうや、桃や苺、バナナ、西瓜。そのものよりずっと強くて美味しい。あれは果物とはもはや違う食べ物で、あれはあれなりの美味しさがあると思う。例えば慣れ親しんだ味の素のお茶漬けを古い乾いた白米で食べたい時に、高級料亭のだしをかけただけの、ろくに味もしない「御茶漬け」など食いたくないだろう。私はその高級な「御茶漬け」の味さえよく知らないから文句を言える立場でもないが、味の素のお茶漬けがいつまでも私の中でのお茶漬けの1番目にいて欲しい。うにや、あわびや、もっと悪趣味なものだとキャビアやフォアグラを、ただ珍しいから、普段食えぬほど高いからとありがたがる舌は持ちたくない。自分でもわからないが、馬鹿舌の方がかっこいい気がする。きっとこの考え方はまた変わる気もしている。

 成金を馬鹿にしたくない。私だって金を持ったら一通り金持ちらしいことはしたいだろう。いい車、いい家、いい恋人を持ちたがると思う。金をかけて手に入れられるものは欲しい。ただし、そのあと趣味の悪さを反省するような奴にはなりたくない。いつまでも成金趣味で、それを誇るようなダサさを忘れたくない。本当の金持ち、などという虚像にすがりたくない。ホテルは必ず一流で、しかもそのことを他人に自慢してしまうようなダサい金持ちの方が可愛いはずだ。金など持てる未来も見えないが、勝手な予想図の中で私はそういう金持ちを目指す。