かっこいいと思うもの

 私はそうは思わない、友達は無駄である、死なないでいる理由、ラブ&ポップ、全部かっこいいタイトルだ。こういう言葉を思いつけるようになりたい。

 

 3人で歩きながら1人に恵比寿の高層マンションに住んで髪をワンレンにしてバリキャリになったら友達やめる、と言ったら友達は大切にしようよ、とムッとした顔で言い返されてよかった。こういう友達は本当に大切にしたいと思う。

 

 自分がやりたいことを掴むチャンス、をまず掴むことができた。いつかコレクションに直で取材に行って、憧れのデザイナーやディレクターの生の感情を、自分の口を使って引き出したいと思う。価値のある解釈と、それを文章にする力を身につけたい。外国語も勉強しなきゃいけない。大きい口叩いておいていつか実現するように自分を追い込んでおく作戦。

 

 バスケットボールは嫌いだけどスラムダンクは大好きで、ピアノは弾けないけどのだめカンタービレは繰り返し読んでいる。取引先のおばあちゃんに可愛い手をしているねと言われて、気恥ずかしかった。本当はゴツゴツしたでっかい手にずっと憧れがあるのに、子供みたいな不恰好な短い指のうえ全部突き指して節々が太く広がっている。バスケのボールは片手で掴めないままで漫画の主人公には永遠になれない。

 

 肌は少し荒れているくらいがカッコよく、同時に背も少し曲がった猫背気味な方がイケている。前を向いて凛としているだけじゃない、そういうかっこよさの尺度がある。厨二っぽいかっこよさを本当にかっこいいスタイルに昇華したい。

金髪の坊主は世界で1番かっこいい

 都庁はエヴァの世界観だ。いつ見ても最高にかっこいい。やっぱり新宿が1番好きだ。

 

 欲しいものが永遠に途切れない。常に欲しいものがあって今のところそれは結構楽しい。

 

 SEIKOのドルチェが欲しい。黒い皮のベルトで長方形の盤面。渋くてかっこよくてでも可愛らしさもある。雰囲気が丸い。好きじゃない言葉だけど品が良い。

 ヴィヴィアンのチョーカーが欲しい。犬の首輪みたいな黒革にスタッズがついたものか、繊細なパールに南京錠型のフックがついてるものがいい。フェティシズムを持ちたい。ジャンポールゴルチエの洋服もそういう意味で欲しい。クラブキッズみたいな格好をしてみたい。自分が今やってもただのコスプレになってしまうけれど、、、

 フルーツオブザルームのタンクトップが欲しい。春が近づいたら白のタンクトップに革ジャン、ストレートのジーンズに革靴を合わせたい。オーソドックスだけどやったことない。そういう服を着てみたい願望はある。似合わないんだろうなあと思うけど着ている人を見るのは好きだ。本当はショットかルイスレザーの革ジャンに合わせたい。どっちもお金がないから買えない。原宿のあの店舗通ってヒロトはここで革ジャン買うのかな〜と妄想している。

 

 帰省した時に母のヴィトンのバッグを奪って東京に持ち帰った。使われずに押し入れにしまい込んであった。茶色で硬めの革、巾着型、まあまあでかい。エピレザーかな。スポスポなんでも入る。まだヴィトンがバカみたいな値段になる前のものだと思う。親族からもらったものってなんだか価値の方向性が違っていいな。譲り受けるって宗教だと思う。

 ブランドもクソもないダウンジャケットもかっさらって帰った。黒くてカシャっとしててずんぐり膨らんでいる。下の部分は紐で締めることができて、垂らしてぷらぷらさせられる。首はかなり色が抜けている。よく着ていたんだなと思う。祖父のもの。1月に持って帰ったのにこの冬1番きているアウターになった。

 

 金髪坊主にしたいと思い続けてインスタで坊主のモデルフォローするだけで終わっている。職業的にも絶対に無理なんだけど、あと肌弱いから向いてないと思うんだけど、あと頭の形からして前髪ある方がいいことは自明なんだけど、どうしても生きてるうちに1回はやりたい!若いうちに遊べなかったんだねあの人、、、ヒソヒソ、、、みたいなのを気にせずに30過ぎたくらいでやる方がサマになるのかもしれない。またそれまで我慢した方がいいのか。やりたい時にやるよりどういう流れでやるかでかっこよさは決まるはずなのでタイミングを見誤らないようにいつのまにか金髪にして坊主にして最高にテンションを上げたい。

 

 やりたいことや欲しいものがあるのは本当に幸せなことだと思う。他者の目がある限り私はこういうものずっと楽しく追っかけられる気がするので、とりあえずこのまま邪念にまみれ欲求に溺れて生きていきたい。

2021/11/14

 映画を見ているときに、感想を書くために映画を見ていると自覚することがあって落ち込む。映画を見るときには映画を楽しむために映画そのものに集中していたい。映画を見ている途中でフィルマークスを開いて感想を書き込んでいる。バカっぽいなと思う。

 何もかも全てのことを忘れたくない。映画も同じで、見た映画のことは全て記憶したい。でも実際には、2時間も費やして登場人物の名前さえすぐ出てこないなんてことがよくある。細かいストーリーも覚えていられない。なんとなく雰囲気で見ている。結局あらすじをもう一度確認したくてWikipediaのページに飛んで、答え合わせをしてそうだったよねと安心したりしている。だから見ている途中でわざわざ一時停止をしてフィルマークスにメモしている。

 

 基本的に自分の頭で考えることは嫌いだ。理由は疲れるからだ。疲れることは極力したくない。

 私はミーハーだから、世の中の王道であったり人のおすすめであったり、そういうものに興味を惹かれることが多い。だから大抵のものには、偉い人やら専門家やら芸能人やらのご立派な解説と感想が先に出ていて、それは十二分に労力と才能を持ち寄って形成されている。つまり私は映画を雰囲気で見終わった後に、彼らの素晴らしくまとまった感想を読んでなんとなく理解した気になることができる。YouTubeのまとめ動画を見て映画を見た気になる人と何が違うのか。

 

 映画だけじゃなくて、文学や音楽とかの、もうすでに確立されていて人気があり、権威を持つジャンルたちは基本スタンスが偉そうだから、私のこういう軽薄な行為は嫌われるんだろうなと思う。私のキャパシティでは名作を1日に2本も3本も観る体力はない。そもそも作品の巨大さに比例して一本を繰り返し繰り返し観る必要が出てくる。でも今の私にそこまでの集中力もなく、かといって周りを気にせずに自分だけの解釈を楽しめるほど文化そのものに興味があるわけではない。

 

 今少女革命ウテナを見ている。幾原邦彦監督がここまで高く評価されていなかったら私はこんなにこの作品に執着しない。自分の好きな人たちがこの作品を評価していなかったらこんな真面目に見ようとしない。不思議な言葉がたくさん出てくるのを、いかにもファンタジーだと馬鹿にしてるかもしれない。どちらも自分自身ではあるけど、どちらが本当の私なのか決められない。作品そのものに対して持つ感触を、素直にそのまま言葉にできるような、そういう力が欲しい。

 

2021/11/09

 マーガリンが好きだ。あのバターにはないしおらしさを持った油の塊が好きだ。パッケージには、常にバターにどれだけ近いか、バターに比べてどれだけ安いか、バターに比べてどれだけ安全性に配慮しているか、バターに比べてどれほど健康的か、デカデカと書き連ねられており、どの商品もバターと比較されて、それでも「本物」のバターに絶対に勝てないマーガリンが好きだ。

 マーガリンとは、バターという本物に近づこうとすればするほど、実際には「本物ではない」という唯一の欠点がなによりもひどく突きつけられて、「偽物」としての烙印が押される悲しい食べ物である。フェイクであるという事実だけが重要であり、どれだけ本物に近似しているかは大して重要ではない。

 大抵の消費者は二者の味の差を感じて買い物をしているわけではないと思う。味には慣れる。初めて食べたバターの味にどれだけ感動しようとも、人間の脳はそれほどうまくできていないはずだ。忘れてしまうものである。それがバターという、毎日でも口にするような日常的なものともなればなおさらである。

 つまり、私はバターを選ぶ人は、バターの味そのものというより、マーガリンではなくバターを買うその選択を大事にしているのだと思う。少しお金を出して毎日使ういいものを買う。バターを買う人がそういう風に見えるほどに、マーガリンは本当に美味しい。

 マーガリンは美味しい。誰になんと言われようと、マーガリンは人間の口に合うようにできている最高の食材である。トーストした食パンにマーガリンをたっぷり塗ったくり一口目にかぶりつくあの瞬間、金色のトロッとした脂がジュワッと口の中に溢れてくるあの感覚は、幸せそのものだと思う。

 

 永遠に2番手に置かれているこのマーガリンの危機的状況がひっくり返ったら面白い。マーガリンが王様になる日がやってくる。

 あの偉そうなツラをして、生意気にも堂々と構えた、大して味は変わらないのにご立派な値段をつけられ、心なしか包み紙まで大金をかけられキラキラとして見える、憎きバターのパッケージに、「まるでマーガリンのような舌触り!」と書かれる日が来るかもしれない。

 マーガリンが、成城石井にどっしりと鎮座する。その影で、ひっそりと、私もいていいんですかという顔で陳列されるバター。高級スーパーの中でよりどりみどりに並べられ、もちろんパッケージには植物性の良質な脂が使われている等々の、商品自体の特性を示す文句が記されている。もちろんもう「上」の対象と惨めに比較されることはなく、自分がマーガリンであるということを誇りに思ってさえいる。

 

 そうなったら私はマーガリンが嫌いになる。マーガリンがマーガリンである自分を誇れるようになったのは、きっとバターという哀れなフェイクがいたからである。マーガリンは、マーガリンがそのままただ置かれていたら、ここまで自信満々にはなれなかったはずである。それなのに、あっという間にマーガリンはバターに対する恩義を忘れて、バターを隅に追いやっている。需要があるということがまるで正義かのように売り場で振る舞い、自分がどういう思いをしたのか何も分かっていないまま、高値をつけられて平然としている。私は何があっても、そんな仕打ちを、自分が受けた仕打ちさえ自覚できず非道に振る舞うマーガリンのことを、絶対に許せないのである。

 

 私には軸がない。スポーツでファンが一つのチームを粘り強く応援するように、オタクが一つのキャラを偏愛し続けるように、何かずっと好きだというものがなく、それがそういう属性で、社会ではそういう立場である、だから好きになるということが多い。それは、私が目まぐるしくブランドの価値が乱高下するファッションを好きな理由だし、だから一つのブランドやスタイルをずっと好きであるという信念は微塵もなく、それを示すかのように常に行くショップも、店員と仲良くなれた経験も、そんなもの一切ない。フラフラしている。

 

 マーガリンそのものが好きにはなれない私は、何か大事なものが欠けているように思えて仕方ない。やっぱり、私は好きであるということを自分の頭で決めることができない人種なのだと思う。生まれる時代を間違えた。タイムマシーンに乗りたい。

 

2021/09/28

  アーマーリングが欲しい。ギラギラしていてつけたら強くなれそうな指輪のことが大好き。パンチしたら1発KO狙えそうなアーマーリング。ファーストヴィヴィアンはハワイで買った小さな指輪とネックレスだった。ホノルルの朗らかな雰囲気はヴィヴィアンのパンクな服と明らかに合っていなかった。ホノルル店限定の小物が置いてあったけど全く欲しくならなかった。コロナの影響もあってか潰れてしまったらしい。悲しいけど閉店して正解かもしれない。

 オーラリーのモヘヤニットが欲しい。高円寺のサファリで触って感動した。今までモヘヤは母が持っていたものしか触ったことがなかった。それは古かったし長らく段ボールに封印されていたものだった。だからこんなに触り心地がいい洋服があるんだと、初めて触れたもののように感動した。なんで試着しなかったんだろう。高すぎて買えないにしても、着るだけ着てみりゃよかったのにと後悔している。

 フィービーセリーヌのでっかいカヴァが欲しい。なんでも入りそう。黒がいい。すり傷つけて使用感出していきたい。でっかいバッグってなんでも入って楽しいけど、普段は使えなくて意外とどこに持っていけばいいのか分からない。実家から泥棒してきた、コーチのアウトレットで買った茶色のトートバッグ、なんだかんだまだ一回も使っていなくて申し訳ない気持ちでいる。見た目は大好きだから無理矢理ホテルにでも泊まってその時持っていきたい。ちょうど安ホテルを紹介するYouTubeを見たからタイミングがいい。

 エディがデザインしたピタピタの革ジャンが欲しい。服を着る時に似合う体づくりから始めること、今では最もファッション的じゃないんだろうけど、思い思いの体を作ろうとすることは間違いじゃないのかなと思う。何かを「かっこいい」とすることは、イコールで何か「かっこよくない」ものを定めてしまうことになると思う。自分が好きなもの、無条件に好きであるということ、それを貫くことがかっこいいとされている現代、それはそれで私には実感がない。私は服を着る時に他者からの視線も込みで着ることを楽しんでいる節があるからだと思う。エディはボディポジティブの先駆者と言えるのか、または身体イメージの偏見を強めただけなのか、でも彼は自分の好きを貫いただけだし、とかサラサラ考える。私のこの視点以外にも様々な捉え方があるだろう。全盛期(今もとんでもなく凄い人だけど)に彼の服をたくさん手に取った人に聞いてみたい。

 ダニエルリーのボッテガのカセットバッグが欲しい。明るいグリーン。ポテポテしてツヤツヤしてイケてる。今緑流行ってるけど僕はその前から緑好きだったんだから、、、と意味のない言い訳を一旦挟んで緑色のもの集めている。褪せた緑の古着のスウェット、少し毛羽立って明るく見えて、とってもキュートな仕上がりで見るだけで楽しい。前の持ち主に感謝感激である。緑はとてもいい色だと目に入るたび思う。ギャルソンの小型財布も欲しいものの一つなんだけど、ミーハーとしてはやはり明るい黄緑のものが欲しくなっている。

 ジョンストンズのチェックのマフラーが欲しい。チェックのマフラー、似合わないのに欲しい。みんな馬鹿にするけど、緑と赤の組み合わせ、いいと思う。クリスマス以外にもつけたらいいじゃんと思う。能天気なので、恋人たちみたいに何かイベントなんかなくても、クリスマスと聞くだけで私は明るくなれる。だからクリスマス柄は積極的に取り入れるに限るのである。年中マライアキャリーと竹内まりやを流せばいいのだ。

 アクネの明るい色のマフラーも欲しい。ロゴがないやつがいい。アウトレットで12,000になってた、買えばよかった、ピッカピカの黄色だった。

 緑のカレが欲しい。スカーフ、付け方よく分からないから部屋に飾っといてもいいな。ワンルームに飾られるカレ。なんと日本的にコラージュされた景色なことよ!私こそ東京の体現者である。デタラメ万歳の精神である。畳の部屋なんかの方がエルメスっぽいけど私の部屋は変なオレンジの壁に白いフローリング調シートの床だからますます東京チックにはなると思う。西欧的理想像をぶち壊したい。

 あとはリーバイスのセットアップと、スワロフスキーの紫と黄色がバイカラーになったチェーンネックレスと、セリーヌの黒革のドゥブルトゥールが欲しい。欲しいものを永遠に頭の中で反芻し続けて、いつか手に入れる日のことを夢見ている。

 

 Charaのsweetをずっと聴いてる。PVで「チャーミングな唇のチャーミングな女の子」って紹介文が出てくるんだけど本当に唇がぷくぷくしていて可愛い。ピンクの口紅で唇を強調している。目線や首の動かし方も、わざとらしくあざとくて可愛い。たまに浅野温子のモノマネに見えて笑っちゃう時がある。

 ジュディマリのラブリーベイベーもずっとずっとずっと聴いている。「ダーリン」って言葉が歌詞に入ってるの、とても好きだ。「ダーリン」って絶対日常の中で使わないからハマったらとことん可愛い。ダーリンは言われることも言うこともないから夢見れる言葉である。「ベリベリプリティグッドフェイスラブボウイ」って言葉も好きだ。言ってることはよくわからないけど、たまに不穏になったりはちゃめちゃに明るかったり、全部含めてとにかく可愛いのがまずもって好きだ。無条件に可愛いから好きだ。暗くて狭いところから抜け出させてくれるこういう曲は自分を救う。

 

 最近見てて楽しい可愛いものが好きだと思う。クールでかっこいいものも大好きだけど、今の私は十分に暗さとひねくれた性格だけは持っているため、ポップさを手に入れて明るくなりたい。

 

香水

 フィロシコスの第一印象は「嗅いだことがある」だった。ディプティックはずっと気になっていて、まだ大学生だった頃に、ハワイのアラモアナセンターでドソンを試香させてもらった。その時はドソンの匂いは苦手だった。そして思ったより高かった。だからすぐに店を出た。白人の女性が店員をしていて、優しかったことを覚えている。好きな匂いなのに好きになれない香水は初めてである。

 今月はもう一本香水を買った。トムフォードのブラックオーキッド。奈良裕也のインスタを見て、彼が使っているなら真似したいと思って買った。日本橋高島屋。雨の中、平日、しかも火曜日、週前半の1番テンションが上がらない時、職場からわざわざ歩いて行った。自分にご褒美をあげるほど特に頑張った日ではなかったけど、どうせ買うなら早いほうがいいと思った。黒の小さなボトル。全体に縦の溝。金色のパネルが付いている。50ミリを買った。

 ブラックオーキッドはとても甘い匂いである。ズドンとして重い。夜につけるべき匂いである。ただしつけると落ち着くのではなく、逆に心がざわざわする。寝香水には向かない。

 いかにもトムフォードという感じがする。カッコつけることを楽しめる類の香水である。つけていくべき場所と、自分が普段行く場所の乖離が大きすぎるので、あまり出番はない。そんなこと買う前からわかっていた、わかっていたけど置いておくだけで気分が上向きになる。こういう香水を買った時、自分のものを選ぶ目は確かだと思う。実用的であるかどうかなど、全くもってどうでもいいのである。

 

 他にも香水はちょこちょこ持っている。初めて買ったフォッシルのサマー。香水を買うということが恥ずかしくてたまらなくて、それでもどうしても欲しくて我慢できずに買った。瓶がエメラルド色で蓋が木製。装飾が凝っていて少し安っぽい(実際安い)。大切な香水の一つで、中学生の頃に買ったのにまだ使い切っていない。匂いもだいぶ劣化しているだろうけど捨てられない。

 父が旅行先で買ってきてくれたディオールオム。オムがフランス語で男だということをこのボトルの名前で初めて知った。シンプルな四角いボトル、柑橘系。確か姉にはミニセットを買ってきていて、ジャドールやミスディオールが入っていた。

 母がナイルの庭を買ったときに、サンプルでもらった李氏の庭。ジャンクロードエレナの庭シリーズはどれも好きだけど、私は特に李氏の庭が好き。上品。

 ニューヨークで買ったバイレード。バーレードなのかバイレードなのか分からない。ど定番のジプシーウォーター。香水は高かったからヘアパフューム。レディーガガのジプシーという曲をよく聞いていたのでこれを選んだ。この香水を爽やかだと褒める投稿をよく目にするけど、あくまでバニラ主体に香るから、爽やかともちょっと違う気がする。でも人気なのはわかる。「都会的」を演出できる匂い。

 コムデギャルソン、ワンダーウッド。誕生日プレゼント。ギャルソンを人から買ってもらうってなんか格好つかないけど、こういうお香みたいなの一つは欲しかったから嬉しかった。ある友達に臭いから手洗ってこいと言われたことを覚えている。あの時はすみませんでした。

 資生堂のゼン。リニューアルしたやつ。金色の四角いボトル。この匂いは最高に好みである。使いやすい。フローラルで柔らかい香りだから男っぽい格好の時に付けたい。革ジャンにデニムの時とか。でも、状況や格好を選ばず、どんな時に付けていても嫌がられない香りだと思う。柑橘じゃないこういう香水はあまり出会ったことがないのでとても重宝する。資生堂のイメージとこの香水の方向性はベストマッチしている気がする。

 ZARAとJo LOVESのコラボ、アマルフィ・サンレイ。なんとなく「君の名前で僕を呼んで」のシャラメをイメージしてこれを選んだ。イタリア繋がり。ジョーマローンは好みじゃないけど、この値段ならと思って買った。セール。セールにかかるコラボ品をありがたくハイエナした。イオンモール熊本。誰も見向きもしてなくて、わさもんは流石流行に敏感である。香りはすごく好き。イメージ通り夏につける。

 ケルゾンのチュイルリー庭園。ノーズショップ新宿。まんま花束の匂い。ガッツリ青い茎や葉っぱの匂いがする。ほとんど持続しないから部屋中に振りまく。休日の朝の匂い。

 

 香水だけでもまだまだ欲しいものはたくさんある。まずはゲランの夜間飛行が欲しい。そのためにも夜間飛行を読まなければいけない。作者繋がりで必ず思い出す星の王子さま、みんなが良いというからきっと何かが良いのだろうけど、あまり価値を分からずに読み終えてしまった。もう内容も覚えていない。薔薇の挿絵だけ覚えている。

 大学の授業で、「子供向けのフリをした大人向けの漫画」を批判する文章を読んだ。作者の主張さえ今では忘れてしまったのに、そこからこういう本は特に避けていた。サン=テグジュペリの本を読み返してみる良い機会かもしれない。

 

 親と匂いがかぶるのはすごく嫌だけど、ナイルの庭も欲しい。他にはココノワール。アリュールオムも。シャネルの瓶は凝りすぎていないのに格好良い。ルタンスのサンタルマジュスキュルも手に入れたい。ルタンスの手がけた資生堂のCMが好きでたまに思い出したように見ることがある。ルタンスは「個性的でありたい」という、既製品には向けてはいけない消費者の欲求を叶えてくれそうなブランドで、そこがギャルソンと似てて好きである。あとはロードゥイッセイ。イッセイミヤケは服から小物から全て好みだ。早くプリーツの服も買い足したい。

 

 欲しいものを抱え切れないほど目の前にして、私は不幸であり幸福である。

 三連休、もうお金は残っていないけど、夜間飛行だけ嗅ぎに行こうかな。多分帰りに手ぶらでマックに寄って、クーポン使ってポテトのLだけ食べてるんだろうな。

 

2021/09/03

 人と仲良くなりたい。でもその人のことを知れば知るほど相容れないアクみたいな部分が浮き出てきて、どうしても嫌になって、結局途中で別れる、みたいなのばかり繰り返している気がする。そもそも球数多く打って選別して向こうからも選別されて残ったのだけが親友!みたいにどんどんイケるタイプでもないのに、こんな自分から人選んじゃって俺ってなんて偉そうなんだと思う。でも全然変える気は起きなくてどこまでも私は偉そうである。本気で悩んでないんだろうなと思える。年取って1人になって死ぬ間際に、カビの生えた煎餅布団の上でおしっこもうんこも垂れ流しながら後悔するのかもしれない。

 私は学校でもそんなに友達はできなかったし、バイト先でも部活でも全然人と仲良くなれなかった。そういうこと言うやつはタカビーな感じするけど現に今本当にそう思うからしょうがないじゃないかと言い訳している。

 同窓会でたくさんの喋ってる人、人、人の山を見た時本当に尊敬した。あと自分に失望した。そんなに色んな人と話すことなかった。喋りかけてくれた人が本当に輝いて見えた。嬉しかった。羨ましかった。別にみんな喋ることなくても喋る相手いるんだと思うと羨ましかった。

 私が一方的に名前だけ知ってる女の子に会場を聞かれた時、一人でずっと入り口の前にいるのもなんとも嫌で、目の前にはイケてるグループ!みたいな軍団がいたし、怖かったからその子と適当に話したりできないかなと思って、数少ない私の友達と(多分友達なはずだったから)知り合いか聞いてみたら聞こえてなかったみたいでその子はすぐ他の友達見つけてどこかへ行った。それだけで本当に帰りたくなった。こんなとこ来て勝手に恥ずかしくなって楽しいより帰りたいが先に来る人間が、それでも来たら楽しいかな〜と期待して全部意味なくて悲しくなって何やってるんだろうバカだな俺って、みたいなループが始まった。

 大体たくさんの人が集まるとこではこんなんばっかりで、最後美味しいご飯食べて数人と喋って楽しくなった気になってまた忘れてそういう会に参加する。2、3人で好きなとこ行ってグダグダしてるのが1番好きなことはわかってるのに本当にバカだ。遅く帰らないと同窓会楽しんでないみたいに思われそうでわざとゆっくり帰った。誰の目を気にしてるのか分からない。

 喋り下手だし、気使えないし、仕事できなくてカッコ悪いしお金ないし見た目も良くないし、、、みたいな、友達ができない理由を作るための、ある意味自己防衛のための、愛する自分への愛ある悪口を並べ立てたところで同じようにダメな人も友達はたくさんいたりする。そういうものなので私が私らしくある限り友達たくさん作れないのはしょうがないことなんだと思う。

 

 人といない時にはとにかく人が隣にいたらどんなにいいだろうと思う。私は多分想像力豊かな方である。豊かな想像力ってして欲しくない妄想もよりリアルにしてしまうから嫌だ。

 本をたくさん読んで想像力をつけましょう!みたいなクソフレーズがあるけど、私だってESには使ったこともあるけれど、あんなん嘘っぱちだと思う。文字を読む行為に変に教育的意味入れなくてもいい。本なんて適当に読んでもいい。集中したかったらする。好きなものを権威として組み込まれるのは気持ち悪いから嫌だ。

 そもそも想像力ってなんなのか。人の気持ち慮ることばっかりフォーカスされるけどそれってそんないいことなのか。想像力ない方が経済的にも精神的にも結構豊かに生きることができそうだと見てて思う。人のこと考えすぎるのは私の場合大体自己防衛でしかないから、そこに想像力使うとただ自分が疲弊する。そういう人は多いと思う。

 他人のことを分かりきるなんて到底無理なことを前提にして、それでも人のこと分かろうとするのが、喧嘩しないためにはきっと何より大事なことだろうけど、そんな努力しても最終的に人は他人と分かり合えない確率の方がよほど高くて、効率と新しさが何より大事な現代においてそんな面倒なことみんなとやってる暇なくて、世の中なんてクソだ。じゃあ最初からそんな面倒なことやらない、代わりにねじ伏せるための金と権力持ってやる!って人が増えるのは当然の流れに思える。どうせ人のこと気にしないんなら自分のやりたいようにやろうぜ!という感情は誰だって持つだろうと思う。

 それはそれとして学者からあなたは構造的に他者を搾取している、みたいに言われるのも辛い。「普通」に生きているだけで他人に迷惑かけているなんてそんなの知りたくない。好きで生まれてきたわけでもないのに勝手に死ぬことも許されないのに、人を救い高い理想を掲げ全ての人が幸せになるように動かないと罪悪感を持たなきゃいけないのかな。そういう構造を変えましょう、社会を変えていきましょう、と聞くと、私も理念に共感する!と考えて動くんじゃなくて無意識に他者を迫害していた過去の自分の罪悪感を消すために動くのが私だと思う。

 

 二元論で考えるのはいい加減やめないと精神衛生上にも良くない。自分には手に負えない大きなものの中での私のちっぽけさについて見つめることが好き過ぎて、それは多分怠慢な私を肯定するための防衛策で、私は肝心な目の前のことを置いていきがちである。それなりに良い私を目指して毎日なんとなく頑張って過ごしていくしかないのだと思う。